みんなでスーパー

週末にスーパーマーケットに家族5人でいくことがある。これまではコントロールできない動きをしたり、抱っこをするので両手が塞がったりで、子ども同伴は買い物の効率が落ちるので、なるべく避けてきた。こういう作業はピャピャっと短時間で済ましたい。

最近はそうでもなくなってきて、次女が大きくなって分別がつくようになって「ここは公園ではない」くらいは分かってきて、走り回ったりもしなくなった。3人の子どもとも、むしろ欲しいものを物色するようになった。

それぞれの「これ買って」が出て来る。例えば次女はこないだはプッチンプリン3個入りを両手に抱えてもってくる。「これ、食べたい」と一歩も譲らない。長男もそれをみて応援する。彼も好きだ。

そのくらいで喜んだ顔をみれるのであれば、買ってあげたくなるのが親ごころ。「いいよ」というとものすごく嬉しそうにレジまで抱えていく。レジでも店員さんに一瞬渡して、「ピッ」としてもらったらまた大事そうに抱える。長男と長女にはまんじゅうを1個ずつ買ってあげた。

普段オモチャは買えないけど、スーパーでほしいものを1つくらいは買ってあげられるし、安いものだ。家に帰るのを楽しみにしている姿も微笑ましい。

ただこの話には後日譚があって、プッチンプリン、長男が皿にまさにプッチンして逆さまに出して食べたのを見た次女はそれを真似したかったのだろう、お盆にそのままプッチンしてしまい妻から怒られていた。

さらにクレジットカードから引き落としができませんの催促ハガキが届き、明細をチェックしたら月に5万円もそのスーパーで払っていることが判明して眼が飛び出る。野菜や海産物の高騰の煽りか。「そのくらい買ってやる」が実はズシンときてたりもする。でもスーパーだけはおねだりが通用して、次は何を買ってもらおうと楽しみにスーパーにいくという日常は、大きくなって里帰りしたとき、懐かしく思い出す光景の一つになるだろう。故郷の思い出づくりだと思ってなるべくやってあげたい。

二人でババ抜き

長女が最近トランプを誘ってくる。今日は夕食の準備をする前にババ抜き、寝る前に神経衰弱。ババ抜きを二人でやって何が面白いか疑問の方も多いと思うが、長女と二人でやると父はこれが面白いのである。当然ジョーカーはどちらにあるか分かる。例えばぼくが持っていたとき、扇状に持ったカードの中で1枚をオトリのようにピュッと立てる。それがジョーカーの場合もあるし、そうでない場合もある。その駆け引きに正面からむかってくる、カード越しの長女の真剣な表情が面白いのである。引っかかったときは悔しそうな顔をし、うまく交わしたときはニヤッとする。すごくストレートな反応なので、みていて清々しい。その立てた1枚をとるかどうかの決断は割と早く、潔くヒュっと抜くあたり正確が出ている。

一方彼女がジョーカーをもっているときも最近はぼくを真似て同じ1枚を立てて釣るようになった。ぼくが引っかかるとニヤっと嬉しそうに笑う。

勝負がかかった彼女が2枚を手にし、うち一枚がジョーカーのとき、「勝負だ!」と右手をあげて2枚を十分シャッフルする。ぼくが1枚を抜こうとすると、抜いてほしくない1枚のときは指にグッとちからを入れて抜けないようにする。だからぼくがそれを取らないで、もう1枚の方、つまりジョーカーをとると嬉しそうにする。その顔がみたいので、ぼくはジョーカーを取って、負けるまで繰り返す。

寝る前の神経衰弱はわりと真剣勝負。昨日は2戦やってぼくが2回とも辛勝したけど、どんどん強くなっていて、今日はぼくが洗濯物を傍らでたたみながらやっていたら完敗した。とても満足そうだった。

今日、長女が公文の宿題をやっていて、こういう問題があったそうだ。

「あなたがもし願いが一つ叶うとしたら、何をお願いしますか」

最初は「死なないように」という何ともポジティブなのかネガティブなのか分からないものを書いて、妻が「死なないから大丈夫、他には?」と聞いたらうーんと考え込んで、書いたのは「毎日が楽しく過ごせますように」。

すばらしい。妻も「ハワイに行きたいとかじゃないんだね」と感心している。

その願いは叶えてあげなくてはいけない。

何を仕事にするか

子どもたちへ。パパはきみたちが将来どんな仕事につくか、楽しみにしています。

もしも迷ったら、いいアドバイスをしてくれている本に出会いましたので、よかったら読んでみてください。パパがとっても尊敬する建築家の香山壽夫先生の本『プロフェッショナルとは何か』です。建築家の視点だけど、どんな仕事にも通じる話だと思うし、パパもたくさんのいろんな仕事をしてきて、世の中にはいろんな誘惑とか価値観があるけど、見失ってはいけない、大事なものは何かをきちんと書いてくださっています。

一部を引用します。

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・いつも充実し、夢中で、あっという間に時は過ぎて行きます。今日も、明日も、その先も、楽しいに違いない。そういう風に生きているのが、「プロ」なのです。

・「プロフェッショナル」とは、収入を得る手段、という意味なのでしょうか。本来の意味は、実は全く違うのです。(中略)医者、法律家、建築家、この三つが、社会においても代表的な大きな集団をなす、プロフェッショナルとみなされていたからです。そしてまたこのプロフェッショなるは、社会からも大きな敬意を払われ、それ故にまた、強い社会的意識を持ち、厳しい自己規律をもって働く人々の集団とみなされていたものです。すなわち、お金を稼ぎ、高い収入のために働くということは、むしろ反対で、自分の利益のためにではなく、社会全体のために働く、むしろ自分の知識や技能を人々への奉仕のために用いる人々とみなされていたのです。

・「プロフェッショナル(professional)」とは、言葉本来の意味で、”profess"した人、すなわち「告白」あるいは「宣言」した人、という意味です。(中略)社会に奉仕することができる自分の専門の知識や技能が、何であるかをはっきりさせた人、すなわち専門の学者、技術者等々を指すようになりました。

・自負とは、人の前に出しゃばり、威張ってみせることではありません。むしろその反対で、人が誰も見ていないところでも、自分は自分の持っている特別な力を、正しく用いるという自覚、そしてそのことを自分を超えた存在に誓い、約束をしていることでもあるのです。

・迷い、悩みは、人間が、自分の出来る全てではなく、その一つを選ぶようになった時からです。

・どちらもやってみたいのです。いや、むしろやるべきなのです。そういう風に、人は本来つくられているのです。いろいろやれることを、やってみることを最大限やってみることが、若者の特権だと私は思います。可能性を悩むのではなく、可能性を最大限楽しむ、それが若さということです。

・いろいろなことをやり、その中で苦しみ、闘い、努力するなかから、たとえおさえつけられても、おさえつけられても、最後に伸びてくるものがあれば、それは、本当の才能と呼ぶべきものでしょう。

・私が、進学の学科を決める時、世界は、造船ブームに湧いている時で、造船学科志望者は殺到し、競争率は最高でした。しかし、卒業の時にはブームは去っており、就職にはまことに少なくなっていたのです。このような、短期的な経済事情に対応する進学傾向の推移は、その後も、学生達の判断を左右しています。愚かなことです。

・正しく選んでいる人には、一つの共通性があると思います。それは、どんなに悩み、様々な意見を聞いて迷うにしても、最終的に、自分の内で、自分に話かけている、静かな、内なる声に耳を傾けて、それによって、最後の決断をしていることです。

・才能があるかないか、と考え悩むことは、よした方がいいと、私は思います。それよりも、その仕事をやることが好きか、ひとつの仕事をやり遂げるためには、必ず何かの苦しみが伴うはずですが、その苦しみ自体も面白いと受け止められるか、そのことを自分に問いかけてみることが大切だ、と思います。

・結局、一言で言えば、始めにもどって、仕事が好きかどうか、ということに帰着します。毎日の仕事、その仕事をやること、続けること自体が楽しいかどうか、それが全てだということです。

・仕事の面白さは、その結果ではなく、その過程、毎日の営みの内にあることを、よく知って下さい。仕事の結果として、名声や地位や富が得られる人もあるでしょう。得られない人もあるでしょう。しかし、富を目的にして面白くない仕事を選んだ人の人生は、たとえ巨万の富を得ても淋しく悲しいものに違いない。その反対に、毎日が働きの内に充実している人は、たとえ無名のうちに終わったとしても、幸せに輝いていると私は思います。

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パパには、ここで紡がれている言葉の数々がズシンと胸にささります。香山先生の経験なさったものに比べたら微々たるものでしかないけど、パパも社会人になり、仕事をするようになって以来、これまで苦しんだり、迷ったことがたくさんあったけど、そのときに、ここで述べられている、仕事の「根本」に立ち返っていれば、判断を迷わなかっただろうなぁと「しみじみ」感じます。

きみたちはまだ働いたことがないから、「しみじみ」感じることはできないでしょう。「よくわからないけど、そんなものなのか」と思うだけかもしれない。それでも十分です。それとも、「当たり前じゃん」と思うかもしれない。それも結構。でも、実際に長く働いてると、その「当たり前」が分からなくなってくるものなんだ。「当たり前」のことを、変わらずにずっと持ち続けることは、実はすごい修養と努力がいることなのです。不思議でしょ。

「自分で判断」すること。そして、「苦しいことがあったって、それも含めて『面白い』と夢中になれて」、お金や地位に惑わされず「自分を社会の役に立てるよう決意すること」。それらを大事にして、何を仕事にするかを楽しみながら、悩んでくれたらうれしいです。仕事は、人生においてとてもたくさんの時間を占めるものです。パパは、きみたちに「生き生きと」働いてほしい。そう願っています。

親目線

アメリカ映画を2本みた。「セッション」と「大統領執事の涙」。どちらも息子に対する父の愛が大きなテーマのように感じた。いやむしろ、父親になったから、この目線で楽しむようになったのだろう。セッションは昨春プノンペンに息子と二人旅をしたときの機内の中でみたのでなおさらである。ラ・ラ・ランドもそのときみて、ブルーレイを買った。この監督の映画は何度も観たくなる魅力があって好きだ。そしてアメリカって、すごい国だなとつくづく。

ファンタジーと現実世界

それはゴム製の卵で、水につけておくと数日したら割れてきて、恐竜が生まれてくるというおもちゃを買ってもらった次女。ボールに水を浸して卵を入れてシゲシゲながめる。よくできていて、少しずつ卵は割れて、最初は頭の先端が除いて1日くらいかけて全身が出て来る。この焦らされる感じも子どもには嬉しい。

赤い4本脚の手のひらサイズの恐竜が全部出てきたとき、はじめは怖いといって触ることができなかったが、長女やら息子と一緒に風呂に持っていっておいた。

お風呂に入ったとき、3人が取り合いになって遊んでいる。浴槽に入れると沈む。恐竜は水の中を生きれるのか、など長女と息子がやりとり。3人で自分が抱っこしたいと取りあっている。恐竜は赤ちゃん扱いされ、優しく話しかけている。9歳の息子も「なんまだ興味を示す。この頃の子どもたちはぬいぐるみやらと自然と心を通わせる。オモチャ、つまりはモノ扱いをしない。

娘二人と風呂に入っているときに、パパの身体も歩くよといって身体の上をチョンチョンと歩かせてくるから、

「痛っ!いま、噛まれた」

というと二人ともビックリした顔をした後に、ゲラゲラ笑う。何度か繰り返して、「うそでしょ」と長女がいっても「いや、噛まれた。パパ、この恐竜怖いな」と怯えたら、「人形だもの、噛むわけないやん」とまともに応えてくる。

不思議なものだ。人形に話しかけて心を通わせているけど、ちゃんと人形には命がないモノだとも認識しているんだな。つまり、ファンタジーであっても、疑似でしかないとわかっている。それをパパの方から現実と混同しようとすると、ちゃんと世界を分けようとする。

面白いのでしばらく「噛まれた」というのを続けていると、長女が「赤ちゃん恐竜は優しいから、パパを噛まないよ。ね~」という。今度は「人形だから」ではなく、その「人形のキャラの設定上」の理由に変わる。自分の中で物語をつくっている。先にお風呂にたくさんいるヒヨコたちと「恐竜って仲良くできるの?」と聞くと「できるよ、ね〜」といって仲良くお話させている。

遊ばせすぎたのか、左の前足がちぎれてきている。長女が心配そうにしているので「絆創膏はってあげたら?」というと息子が「人形に絆創膏はるなんて、あるの?」とこっちはモノ扱いの横ヤリ。ファンタジーの世界には大人が入ろうとすると、なぜか子どもたちは現実世界に戻る。

「名前をつけたら?」と提案すると、次女は「パトモちゃんにする」と由来が謎の命名を行う。長女も息子も覚えにくくてなかなか定着しない。次の日になったらみんななかなか思い出せない。次女も忘れているようなので、息子は「覚えにくいから、竜太にしない?」と改名しようというけど、パパは覚えているので「パトモちゃんでしょ」といってあげると復活する。揉めたら、「パトモは名字、竜太が名前」という扱いでいいと思っている。

バレンタイン

昨日は長女と次女からはにかみながらチョコをもらった。バレンタインを教えてないし、無くてもいいとおもっていたけど、いざもらえると素直に嬉しくなったよ。ダースベーダーのチョコだった。どうやって食べよう。よく考えたら買いにいく時間もないし、おばあちゃんが代わりに買ってきてくれたようだ。お迎えに行ってもらったときに「パパに渡しなさい」と言われたのだろう。それで十分。2月14日は娘たちが生まれてくれたことに感謝できる日になったね。早速お返しは何をくれるの?と聞かれた。

息子は将棋のチョコをおばあちゃんからもらっていた。「おばあちゃん、おれの好きなものよくわかってるな〜」と感心している。

「チョコって、カカオからできてるんだよ」と兄らしく妹たちに教えていた。

「カカオ、つくりたーい」と長女はいうが、育つのかな、この雪国で。

最近は保育園でも学校でも中で個人的に渡しあうのは禁止されているので、わざわざ長女の友だちが家まで届けてくれた。手作りのもあるらしい。長女に促すの、まったく抜け落ちていたので反省する。もうそういうお年頃なのだね。お礼の手紙をイソイソと書いていた。

引き剥がされる次女

最近、娘二人を保育園に送ると次女から、長女を先に教室に送ってというリクエストがある。次女の教室が手前にあるのでついつい次女を先に預けたいのだけど、少しでもパパと一緒にいたいということらしいので、実にうれしいのでそうする。さて長女を先に教室に預けて、次女の教室にいくと別れを惜しむように脚を掴んで離さない。引きずるようにしながら本当は次女が自分でやるべきお手拭きタオルやらコップなどを決まったところに掛けるのだけど、それもぼくがやる。

それをみていた先生が状況を察して優しく次女を呼んでくれるのだけど顔は太ももあたりに擦り付けたまま名残惜しそうにする。これまでは機嫌よく友だちの輪やおもちゃに飛び込んでいっていたのに、何か変化があったらしい。家でのカワイガリが不足しているのだろうか。いやそんなことはないはずだ。

先生が次女を引き剥がすように抱っこすると泣くので、ぼくも申し訳なくなり、その場を去りにくそうにしていると先生から「とっとと早くいけ」のご指示をその仕草から感じるので心を鬼にしてさる。

まぁお迎えにいって話を聞くと楽しく過ごしているようだし、朝のご機嫌斜めのほんの一時的なものらしい。「保育園行きたくない」とはいわないし。おばあちゃんが送ってくれるときも同じようにすることもあるので、パパにだけ特有のものでもないらしい。