桃戦争

今朝はみんな早く起きて、次女が寝床の本棚を物色して本を取り出し、それを落としてぼくの鼻頭に落ちて痛くて目が覚めた。

その本の1ページはいろんな花が描いてあって、その花びらの色がいろいろで、色の種類を教えるページ。

「ピンクがいい」と次女がいう。「わたしは『もも色』。」文字が読める長女は同じ花を指して同じものをいいという。それが引き金となり、「これはピンク」「桃色。ピンクをもも色。同じ。」「いやピンク」さらには「これはじぶんの」と名称と所有を取り合うという修羅場になって、先に長女が泣く。朝っぱらから泣いているのが可哀想なので、「だれやおねぇちゃん泣かしたの」というとやべぇと思ったのだろう、次女が今度は神妙な面持ちになって、泣き始める。

次女の主張。

「わたしがおねえちゃんを泣かして、だからおねえちゃんもわたしを泣かしたの」。

横で見守っていた長男と目を合わせて笑う。現象だけをみると、たしかにそうだ。

次女は最近台風の目になっている。朝から実に忙しい。

フドウ戦争

長女と次女がささいなことでもめる。もっとも、本人からしたら「ささいなこと」ではない。大人が勝手に決めておる。

長女に保育園で悲しいことがあった日。先生からも謝られ、しょんぼりしてるから「好きなもの買ってあげる」とスーパーに行く。それを言う場所をもっと選ぶべきだった。入ってすぐの果物売り場でそれを言ったために、すぐそばにある巨峰に手を差し伸べる。高い。こないだ友人の家で食べさせてもらったのがよっぽど美味しかったようだ。大きいパックをつかむから、小さいパックにそっと変える。値段が300円くらい違う。なんでそのまま大きなパックじゃないのか不思議そう。そりゃそうだ。「好きなもの」といったのに。まぁこれも大人の都合。

一連で横でみていた次女。なんかイヤな予感がしたら、案の定自分は「これ買う」といって今度はデラウエアのパックをつかんでいる。「小さいのがいい」といって聞かない。

巨峰にデラウエア、両方一度に買うほど余裕のあるご家庭ではない。「今日は大きいのにしよ。今日はお姉ちゃんのほしいもの、買ってあげよ」と説得しても「はいそうですねお父さん」という次女ではない。おとなしく言うことに従うか、ここで泣かれるかどちらかを選べ、というのが次女の流儀。

懐柔しようとすればするほど、小さな手に力が入り、デラウエアのパックに穴が開きそうなので、観念する。

買い物かごに入れていた梨を戻し、デラウエアと巨峰両方を買うことに。

まだ冷蔵庫にどちらもある。おとなしく買えば、食べなくても満足なのかしら。

忘れているみたいだから、食べちゃおうかな。

 

夏休み最終日

夏休み最終日。前の晩に息子と妻のあいだに一悶着あり、息子は自分で弁当つくることになった。ぼくはひとまず見守ることにする。朝早く起こす。「弁当つくるんだろ」というと朝6時にスパッと起きた。

「おれ、弁当どうすればいい?」

「母ちゃんに謝って作ってもらうか、自分でつくるかどっちかや」

急に表情がくもり、ふてくされ、やさぐれている。これまで弁当作ったことはない。どうしろっていうんだよ、と不満があるのだろう。それでも謝る気はないらしい。意地が出てきた。反抗だって成長だ。

うつむきながら冷蔵庫のところに行って、冷凍庫を開けて、ミートボールの冷凍食品を取り出す。「どうしたらいい」とまた訊くので、裏の説明書を一緒に読んで、レンジでチンさせる。あとは最近マイブームの庭で穫れたキュウリに生ハムを巻いて食べるメニューを作って、おむすびつくればそれなりに整うやろ、と勧めたら少し安心したようだ。

ぼくは出張なのでもう出なくてはいけない。そのあとどうなるか気になるが、じゃあなと先に出る。寂しいのか、ぼくが見えなくなるまで階段の窓から手を振っている。

後日聞けば、ブドウを入れたり、無事に弁当は仕上げていったらしい。夏休みの最後に逆境からのスキルアップ。結構なことだ。

夏休みラストスパート

夏休み後半。せわしない日々をすごした。

1泊2日で登山、こども映画教室、東京出張して、車検、美術館に工作、公文、芝刈り、また東京出張、テニス、SCOTの野外舞台鑑賞、またテニス、また今日美術館にって、そしてサッカーに連れていく。

宿題を終えた長男は実にのびのびしている。長女はピアノ教室で2冊のテキストを終えたらしい。食いしん坊の次女は言葉を覚えて主義主張もできるようになり、末っ子の地位を謳歌している。

そのつなぎの時間は子どもたち全員でドラえもんをみている。

とびばこ

長女は足は早い方らしいけど、ずっと跳び箱が1段も飛べなかった。それがこないだ満面の笑みで「跳び箱飛べるようになったよ、4段も」と報告してきた。よっぽどうれしかったのだろう、ご飯の前、風呂の中、寝る前と何度も繰り返す。急にできるようになって、先生もびっくりしていたそうだ。
跳び箱買って、といっている。さすがに買えないから親が亀のようにうずくまり、跳び箱になる。背中に両手をついて飛び越える動作から、見えないけどコツはもう掴んでいることはわかる。

こないだの登山でトントンと石の坂を昇り降りする軽快さをみたら、運動神経がないとはおもえないし、ちょっとしたことだったんだろうね。次は5段を目指すらしい。おめでと。

その方が夕日は美しい

こないだの、帰宅時に見た夕日はほんとうに赤くて。これまでの人生で見たなかで一番心に打たれた夕日だった。これがマジックアワーというのかな。

家路は太陽が沈む海とは逆向きの坂の上にある。

自転車を漕いでいるときは夕日は見えない。惜しい。それでも前方、坂の上の空がみるみるオレンジ色に染まっていく。いつもはそんな夕日が沈む反対側が染まることはない。今晩はよっぽどなのだろう。オレンジゾーンが明らかに広い。時々交差点で立ち止まっては見返す。時々刻々、オレンジが深みを増していく。

この日までは夕日といえば雲がない空に、真っ赤っ赤で真ん丸なものが悠然と海に沈んでいくのが一番きれいなのだと思い込んでいた。例えばハワイ。堂々たる美しさがある。

 

考え方が変わった。その日は空に綿菓子を薄くちぎったように雲が散らばっていた。

薄い雲が太陽を覆っていて、太陽自体は見えない。雲がベールになって、そのむこうにある。そのベールが一役買っていた。太陽の光をより拡散させるから、赤色から橙色までのグラデーションがいつになく広い。民家、車、樹々といった視界に入るものはオレンジの水彩絵の具を上から塗られたかのようにすべて暖かい色を帯びている。たぶんぼくも赤い。

 

隠す雲が夕日を引き立てる。映画しかり、プロレスしかり、そういえば物語にはヒールがいるから面白い。夕日だって同じなのか。その姿を隠す雲があるほうが盛り上がり、美しさが際立つというわけか。

 

世の中そういうものなのかもしれない。消そうとすればするほど、その存在がむしろ目立ったりするし、対立そのものが興味を引いて耳目を集める。どちら側に立つかというのはさして問題ではない。一番盛り上がるのは決着する寸前。決着したら拍手があって、その後は冷めはじめる。

好敵手って、いい言葉だな。相手がいたから、自分も高まった、みたいな。大空翼日向小次郎。どちらか一方だけがそのまま残るとことはない。残ったほうも、何かしら影響を受ける。そう考えたら、対立があったとき、「どちらが良いか」より、その対立は「それは良い対立なのか」の視点の方が大事なのかもしれない。

 

ただただ見惚れたあと、惜しまれながら夕日はあっという間に沈む。しばらく余韻がつづいて空はまだ赤いままだが、なおも漂う雲はどこか寂しそうに見えた。

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お盆の保育園

今日は長女と次女にとっても初めてのことがあって、お盆だから園児がすくなくて、保育園で、同じ教室で長女と次女が終日一緒にいたそうだ。
「ブロックをして遊んだ」と長女。

次女に訊くと「おままごと」。すかさず「おままごと、してないよ」と長女からツッコミが入る。まぁ二人ともうれしそうだから何でもよい。みたかったなその風景。
この話を聞けたのは二人をお風呂に入れていたとき。忙しくて夕食を共にできなかったけど、やっぱりこういう時間は大事だな。