つくし

日曜日に保育園の近くにいく。こないだぼくも手伝ったヤギの柵が完成していて、新しいフィールドでヤギが草を食べている。前のフィールドは新たな宅地造成がはじまり、場所を追われていた。よかったね。新しいフィールドは前の倍くらいありそう。

長男が「ついでに鴨につくしあげたい」という。去年もやったなそれ。

もうつくし生えてるのかなと呟けば「生えとるよ、あの学校にいく途中の階段の横のとこ」と力強い。そこまではやや距離がある。

去年も生えていた保育園の隣の庭に走っていって、いくつかとってくる。

鴨は庭をペタペタと今日も放し飼い。白いのとふつうの色の二羽。早速あげてみる。手から口へは直接食べない。口の先に落とす。

食べるかな。しばらく口を出さない。あれ、去年は食べたのにねと話しながら、いくつかちぎって追加していくと、白い方が食べた。普通の色の方は白い方の後ろに並んで様子見。「かもさん、こわいよ」と抱っこしてる次女。こわいというときと、こわくないというときがある。目線がね、まだ近いからなぁアングルによってもちがうのかな。

 

食べたけどいまいちがっつかないのが物足りないのか、「あの階段の横のとこ、いって大きいのとってくるかね」といいだす。次女がいるので、独りでいける?と聞くとわかったと駆け出す。

その場所は保育園から下った先なので、駆けていく姿はずっと見通せる。

追いかけようとする次女。パラパラと雨が降ってくる。

お兄ちゃんどこいったと少し心配そうな次女としばらく待っていると、走って戻ってくる。片手に掴めるだけのつくし。一本20センチくらいありそう。たしかに大きい。

 

さぁあげにいくぞと保育園に戻ると、ちょうど園長先生が鴨をおうちに収容したあとで、外にはいなくなっている。

おうちに入ってあげてごらんといってくれて、いくつかあげる。けど、やはりいまいち食べない。

「おこめさっきあげたから、お腹一杯なんじゃないかな」

そういうことですか。つくしがキライになったわけじゃないのね、よかった。

たくさん採ったの、どうしようかという空気になって、園長先生が佃煮にしたり、味噌汁の具にしたらおいしいですよねと教えてくれる。なるほど食べればいいのか。

「んじゃ帰って料理しようか」と帰路につく。はりきって長男はもっと採ってくると途中でその採集場で一人降ろす。

 

家に着いたら、ちょうどママ友のお子さまにあげるお花やらケーキやらを買いにいっていたママと長女も帰ってきた。

雨が強くなってきたので、長男をピックアップしにいく。さらにたくさん採ったぞと意気揚々。日当たりがいい斜面。まだまだ生えている。

 

長男はママ友宅で友人とドラゴンボールをみながらご飯にでかける。つくしは今晩食べたほうがよさげ。夕飯の支度のとき、長女に「つくし、やる?」ときくとノリノリなので、一緒にする。先をとり、茎のジョイントの葉っぱをとって二センチくらいの茎だけにする。

単純作業。甲斐甲斐しくせっせと長女は飽きもせずにやる。たどたどしさもなくなり、手つきもこなれて速くなる。おかげでこちらは他の料理ができる。

たくさんあるので、まだ全部はできないところで先に料理ができた。つくしも使った炒め物と味噌汁。お腹減ったであろう長女と次女と妻に先に食べさせる。のこりのつくしの下処理はぼくがやる。「食べたら、またやらなきゃ」と長女も張り切ってるけど、遅くないようにしなきゃなので、やっちゃう。残った味噌汁に放り込む。

先に食べた妻から「つくし、美味しいね」の声が上がる。旬なものは鴨でも人間でも美味しいものなんだな。「お金なくても、生きる術を今日もひとつ覚えたね」と満足げ。つくしでお腹一杯にはならなくとも、たしかにタダでものを食べている感覚は妙な安心感がある。

長男が帰ってきて、つくしを使ったことを伝えたらうれしそうで、しみじみと味噌汁をすする。収穫した兄と調理した妹の合作。

つくしと鴨のおかげで、今日も何でもないけど楽しい一日が過ごせた。

 

 

3月の追い込み

珍しく子どもが起きてない時間に帰宅することがつづき、4人が寝静まった布団にそっと入る。今夜は長男の横。暖かい。

朝、先に起きた長男が横にぼくがいるのを気付いた。こちらはまだまどろんでいる。

「父ちゃんおはよ」というので「おはよ」と返すと、まだ眠たそうに「おれ、プール合格したよ」と。

月1回のスイミングのテスト。背泳ぎ50メートル。たぶん4回くらい落ち続けている。仲のいい同級生は次々先を進んでいるなかで、かといって気負うこともなく、もうイヤだとも言わずに毎週通っていた。ここ数回、テストがあった日は帰宅するとすぐに「落ちた」と報告するようになった。親の期待感を感じていたのだろう。

起きてすぐ伝えたということは、よっぽどだったのだとおもわれる。

最近グラグラになって、ずっと気になっていて何も手につかなかった前歯も抜けたそうだ。ママが引っ張ったとか。公文も合格してあたらしいステップに進む。

いろいろスッキリして、新しい学年になる。

風船事件

よく家族でいくラーメン屋は帰りに風船をくれる。子どもたちはそれが楽しみらしい。1人ひとつもらえるのでケンカにもならない。

数日後、長女の風船だけ、しぼんでいて、悲しくなって泣く。別にそのくらいのことで、とおもうけど、彼女にしたら悔しいみたい。次女がお姉ちゃんのだけ、小さくなったねとまた煽ったり。

「大きくして」というので、固く結ばれている口をそーっと解いてまた空気を入れてやる。こっちをじっとみて、少しずつ大きくなるのをみてホッとしている様子。

 

次女くらいの大きさにはしてあげたいなと空気を入れると、うかつにもパンと割れてしまった。「あ」に濁点をつけた声が出てしまう。

静まりかえる我が家。

「われた!」と息子が声をあげる。

救世主にみえたパパが、急転直下で残酷な悪魔にみえたであろう長女の顔をおそるおそるみると、固まっている。

泣いちゃうなこれはと腹をくくりながら「われちゃったね、ごめん」というと、なんともいえないビックリと残念な顔をしたまま視線をはずし、ごはんを食べる。パパに悪気はないことをわかって現実を受け止めることができたのか、意外にも涙はなかった。ほっ。はじけた風船の残骸を拾いながら、成長を感じる。

 

次女の赤い風船は一週間たってもまだしぶとく大きさを保っている。

 

次女の主張

次女がベラベラしゃべれるようになり、イヤイヤ期も終盤だとおもわれるけど、やっぱり大変なときは大変で、自己主張やワガママが激しいときがあって、でもそれが言葉でわかるようになったし、できるだけ対応してやりたいのだけど、限界があったり。

大雑把に彼女のワガママモードのときの主張を分類すると「私も◯◯(だいたいお姉ちゃんと)同じことをやりたい」系か、「自分でやる(から、勝手にするな)」系かの2種類。
長女を肩車していると「私も」といってダダをこねる。長女からすれば、自分がいいだしたのに、すぐに降ろされることになって我慢することになる。それもかわいそうなので、「順番、待ってね」といっても「はいわかりました」にはならない。しばしば、うっとうしい。いくら小さくてかわいい愛娘とはいえ、ちょっとうざいと感じるときもある。

 

朝、保育園に遅刻しそうなので、靴下と靴を履かせて、抱っこして車まで運んで、座席に座らせてシートベルトをするという一連のルーティンをやろうとすると、「自分でやる〜ウェーン」と怒り、泣かれたり。こちらはうっとうしいというより、追い詰められることが多い。シートベルトはできないのにいうもんだから、結局「できない〜」と泣くことはわかっているからもどかしい。

 

とはいえ、当たり前だけど、同じことしたい系は、それが楽しいことにみえるからで、楽しくないことはいわない。だから、それ系の発言が多いということは、それだけ楽しそうだということで、一つの楽しさバロメーターでもある。

自分でやりたい系も、積極的な姿勢と捉えたらすごく大事なことだし、やっぱりそれをやらせてあげるだけの時間と気持ちの余裕をつくってあげることが、いろいろ代わりにやってあげるよし、してあげなきゃいけないことなのだとおもう(でもそれが実にむつかしい)。

 

昨日、その余裕があって、ふらふら春の日差しを浴びながら近所を散歩。
肩車してあげているとき、「あ、鳥がいるよ」と教えたら「どこに?」と返ってきた。
ちゃんとキャッチボールになっているから驚く。成長したなとしみじみする。うれしい。

そういえば、お風呂で長女がぼくの背中を洗ってくれるときは「わたしも」は出ないな。寝床で長女がぼくを寝かしつけるときも、「わたしも」ではなく「ママと」になるな。ここはなぜ、そうならないのだろう。楽しくなさそうなの、かな。

 

いまこれを書いているのを風呂上がりの長男にみつかり、読んでいった。「たしかに、ならないね、その2つ、フフっ」といって去っていった。

やってやること

まだ子ども3人はキャッキャキャッキャと一緒に風呂に入る。こないだは「365日の紙ひこうき」なる歌を保育園で覚えたのか、3人が湯舟につかりながら合唱していたときはしみじみした。いいものみせてもらった。

「そろそろ身体を洗うぞ、だれが一番?」ときくと全員「はーい」と手をあげる。それが叶えられないと暴れるモンスターチャイルドこと次女が自然と一番になる。兄と姉は、「しょうがないか」的寛容な対応。ほめてあげる。

次女を洗った次に、長男が飛び出してくる。妹の長女はそのパターンか、みたいな静観。これまたえらい。

風呂上がりにこの話をすると、長男の身体まだ洗ってあげてるの?と妻。

「そだよ。『洗って』っていうし」というと、「私は洗ってあげないけどね」だそうだ。

なるほど。もう自分で洗える年齢だし、それでいいのかもしれない。こないだ行った銭湯では、恥ずかしいから自分で洗えっていった。でも生まれてきてずっと続けてきたことでもあるので、なんか完全になくなるのも少し寂しい。

 

長男がまだ身の回りでできないことは、耳かきと爪切りくらいか。教えてないだけで、それらも、ほんとはもうできておかしくないのかな。

こないだも、サッカーのスパイクの靴紐がプレイ中にすぐほどけてるようだから、固く結んでやろうかといったら「自分でできるようになったわ」と肩透かし。いまじゃ本もほぼ自分で読んでしまう。

長女は、ご飯茶碗の最後に残った米粒たちを「あつめて、して」といってくる。スプーンなりでかき集めて、それを口にいれてやる。寝床からまだ1人で降りれないから、抱っこしてあげる。皮膚が弱いから、風呂上がりにお薬と塗ってあげる。絵本も読んでやらなきゃ読めない。とまだいくつかあるけど、ずいぶん楽になった。

次女はまだまだやってあげることばかり。とはいえ、階段は1人で上がってくるようになったり。

 

成長すればするほど、親は暇になるのですなぁ。3人とも小学生になったら、できた空白は何で埋めてるのだろう。

料理と車の運転はまだまだ先がある。さあ今夜は何にしよ。

真似る順番

朝保育園に長女と次女を送る車中。二人ともゴキゲンなときは、会話したり、歌をうたったり。季節はずれだけど「もういくつ寝るとお正月」の歌を謳ってた。次女もびっくりするくらい、歌詞を覚えられるようになった。

今日は、次女が先にしゃべって、山に雪があるとか、オオカミをみつけたよ、とか思うがままを言葉にしている。それを長女が真似をして、その言葉をオウム返ししる。次女はそれが面白かったようで、はりきって次の言葉を継ごうとする。

普段、長女がいう言葉を次女が逐一真似をして、長女が「真似せんといて」キーって怒るときがある。「わたしが先にいってた言葉をとらないで」ということ。おもちゃだけでなく、形而上学的なところまで所有にまつわるケンカの種があるとは父ちゃんびっくりしたよ。まぁたかしかに、マナばっかりされたら単純にうざったい。

でも、長女が真似をするのは次女的にはアリなんだね。自分の発する言葉が受け止められてる実感がうれしいのかな。

並行して、少しずつ、イヤイヤ期は収まってきている気がする。言葉で自分の気持ちを伝えられるようになってきてるから、ストレスが減ってきているのだろう。

今朝は「しずかちゃんとドラえもんに会いたい」といっていた。

父ちゃんうれしいか

夜息子が珍しく隣で寝たいと。やりたくないけど、枕元で携帯がブルっとなり、メールをみる。暗闇で光るスマホの文字を、息子も気になったようでみる。

メールボックスamazonからのメールが目に入ったようで、「父ちゃん、『様』ってよばれとるね、うれしい?」と聞いてくる。「王様みたいだね、様ってよばれて」

彼のなかで、昔話とか、本に出てくる人で、「様」呼ばわれする人は偉い人、ということになっているのだな。まさか自分のオヤジが呼ばれる立場だと夢にも思ってなかったのだろう。すこし語調が興奮気味。

amazonさんは、機械で、自動的に「様」がついているのだよ、というのも露骨に興を冷ます気がして、「別にうれしくないよ。まぁこの人はみんなに様っていってるからで、父ちゃんが偉いわけではないからな」くらいに返した。

「ふーん、そんなヤツおるんやね」

「様っていわれて、いやな人はおらんから、そうしてるんだろ」

「ふーん」

amazonがまさか少し父への敬意を生むとは思ってなかった。