今日学校どうやった

帰宅する息子を洗濯物をたたみながら待ち受ける。帰ってきたら水泳教室におくるため。
車の中で、今日学校どうやったか聞く。昼休み何してた、とか。

「友達についていった。最近そればっかりしてる。」

友達が学校の中を歩きまわり、それをドラクエのようについていくのが楽しいらしい。ときどき、順番入れ替わるらしい。

「先生って、教室でも給食食べるやろ。でも、職員室に戻っても、サンドイッチ食べとるわ。」

「職員室に入っていいの?」

「いや、だめ。でも窓みたいなところがあって、そこからこっそり二人で覗いとる。」

今日の一番の発見はそれだったらしい。サンドイッチ、ゆっくり食べさせてあげてくれ。お店でよくみるパックのやつではなくて、サンドイッチにそのままサランラップがしてあって、お店で買ったようではないのだけど、んじゃどこからサンドイッチは届いているのか、気になるらしい。教職員全員配られるシステムあるのかな、とか。家で自分で作ってきたんじゃないの?ということにした。

なんか小学校のときの職員室って、独特なオーラを放ってたよなぁ。なんか近づいてはいけない大人の世界のような。忘れてたあの感じを思い出した。

水泳から帰ってご飯食べて、いまは机で宿題をしている。眠たいらしい。目をこすっている。サンドイッチの話を再度聞いてたら、「そのこと、書くん?」といって笑っている。

誕生日の一日

ぼくの誕生日。
長女と次女は保育園へ行き、インフルの長男と妻は休みで家にいることになった。
長男はすっかり元気。妻はまだ寝ている。

いい天気で気持ちがいい。長男は双眼鏡でトンビを追っかけている。溜まった宿題に手をつける気配はない。
ぼくはいつもどおり食器洗いに洗濯に家事をいろいろこなしていると、ピンポーンとインターホンがなる。

佐川急便。妻宛て。送り主はどっかの食器メーカー。
また通販で何か買ったか、だれかへの内祝いだろう。

寝ている妻に「お皿っぽいけど」と報告したら、「開けて」という。
どこまで?「お皿まで、出しちゃっていいの?!」というと「うん」という。
てこた我が家のために皿買ったの?いつのまに。
明日ゴミの日だし、ダンボールはすぐに捨てたいので、開ける。

中から丁寧に梱包されて「御祝」と熨斗がしてある箱が。
誰かにあげるもの?それとも誰かからの御祝い?混乱する。
「皿まで出せ」はやっぱり指示ミスだろう。
開けて後から文句をいわれてはかなわない。
「ちょっと!熨斗あるよ!御祝いって書いてあるけど、開けていいわけ!?」と聞く。
他にやりたいことあるから、ちょっとイライラする。

「そうだよ」といって、せせら笑っている。

「ん?」

あ。これ、ぼくへのか、とようやく気づく。

普段サプライズ全く無いので、最後の最後まで気づかなかったわ。
こないだ割れたお気に入りのコーヒーカップを買ってくれたらしい。

ぼくが笑っていると、事情をどこまで把握しているかわからないが、長男も笑っている。

枕元へ言ってお礼をいう。ぼくのまったく気づかないリアクションに、「あー面白かった」と笑っている。
素直にお礼だけを言えばいいのに、つい「本皮のバスケットボールもらえるとおもってた」と付け足してしまった。
「ひどーい」と言われる。そりゃそうだ。
完全に照れ隠しです、はい。
もったいないので、しばらく箱のまま、棚にしまうことにする。

家事が一段落して、暖かいので起きてきた妻も行けるというので息子と一緒に散歩に行くことにした。
久しぶりの外出。息子ははしゃいでいる。長女次女がいない3人家族は久しぶり。

家の周りの普段いかない山道をグルっと一周する小一時間の散歩コース。こないだは長女と二人で行ったコース。
途中であちこち回り道をしようとする息子。妻は付き合ってらんないと、道端に腰を下ろして待つ。
ぼくはついていく。小川をみつけたり、木の棒を拾ったり。アクティブ。
長女は主に道行く花に興味を示したのとは対照的だ。
途中、ふきのとうを一つみつける。母ちゃんに持っていこうと摘む。

母ちゃんにみせて、「天ぷらにして」という。
大事そうに両手で抱えて歩く。

神社による。手を合わせる。
急にふきのとうを、「カミサマにあげる」と言い出す。
「一つだけ天ぷらにしても、べつにお腹ふくれないし」とのこと。
「カミサマにあげるのも、天ぷらにしてからのほうがいいかな?」と気にしている。
「カミサマのお腹は神の胃袋で、生でも大丈夫や、病気にならん」
「そっか」
境内の賽銭箱の上にお供えしようとするから、
「そこじゃなくて、境内の前の土に還るところにしな」といって、外に置かせる。

帰り道も山道。
途中で2.5メートルくらいの立派な木の枝が落ちているのを発見。
「持って帰りたい」といいだす。
「んじゃ自分でもって帰れるならいいよ」というと、
「わかった」といってがんばって背負おうとする。
やっぱり、今日はやけにテンションが高い。
家までは大人の足でもあと20分はかかる。けど、意志は堅い。
秘密基地の材料にしたいのだそうだ。

山の上り道。やっぱりバランスを崩すので、片方を持ってやる。
妻はペースが遅いので先に行く。半ばあきれている様子。
第三者的にみたら、デコボコ親子が大きな枝を担いでいる。
「変な親子だわ、あんたら」と笑っている。
何組かの散歩している人たちとすれ違う。

ようやく帰宅。つくりかけの秘密基地にその枝を搬送。満足そうだ。

その後、温泉の準備をして、保育園に長女と次女を迎えにいく。
そのまま温泉にいく。山の中にある景色がいい露天風呂。
ここでも長男のテンションは高い。
露天風呂に浸かりながら、「温泉と、風呂ってどう違うの?」と聞いてくる。
パッとこたられない。
「風呂は沸かす、温泉は沸かさない」
「は?」って顔をしている。たしかに自分でも何を言っているかよくわかっていない。
「身体にいいのが温泉。よくないのが風呂」
これも「は?」ってかんじ。確かに。
「温泉は地中の深くのところから湧き上がっていて、それ、身体にいいんだって。水道水はそうでもない」
「深くのほうが汚そうだけど、なんでそっちのほうが身体にいいの?」
それもそうだ。

別の湯舟に、滝のように流れ落ちるところを見つける。「その下にいっていい?」ときく。
下に入って、手を合わせて「修行」をしている。
今日よく手を合わせてるなこいつ。
そんな調子で風呂から、出ようとしない。結局、女子組より長風呂をする。

出ると娘たちは先にいちごミルクを買ってもらって飲んでいる。
こっちは風呂で話をしていた楽しみにしていたコーヒー牛乳を買う。
長男が先に買って、次にぼくの番。
「おれが買ってあげる」というので、長男に託すと、間違って牛乳のボタンを押しやがった。
「おい!それ牛乳!」というと、手を頭にもっていって「あ、しまった!」と顔をしかめている。
ぼくが怒るとおもったのだろう。「じゃ、これ」と先にかった自分の分のコーヒー牛乳を手渡そうとする。
「いいわ、それはお前が飲め」といって断る。わざとじゃないし。

風呂上がりに牛乳を飲むのははじめてだ。どうなんだろ、と思ったけど、喉がぜんぜん潤わない。
息子が少しコーヒー牛乳を分けてくれるかとおもったら、全部飲みやがった。そういう機転はまだ効かないようだ。残念だ。

長女が「おんぶ」という。おんぶのまま、待合室の脇にいって、展示されている山の動物の剥製を見て回る。
テンとかイタチをみて、「かわい〜超かわい〜」とはしゃいでいる。

長男、いきなりその場にあった小学生むけの本を読み出す。
待ちきれないので、長女と次女と妻は先に車に戻るという。テレビを見たいらしい。

15分くらい、1冊まるごと読み終えるまで待ってやる。その間にいよかんを買う。
途中で「ねえここ、おもしれーよ」といって共有してくる。当該部分を音読して聞かせようとするけど、そこまで時間がない。
「だいじょぶ、父ちゃん読めるから。そのほうが、早いやろ。母ちゃん待ってるし」
「あ、それもそうやね」

車に戻る。「母ちゃん、怒ってるかな」と気にしている。
気になっても、本は最後まで読みたいものなのだな。

家までの帰り道、夕日が沈んでいく。
長女に今日、こないだ行った散歩コース、妻と長男といったと告げると
「わたしもいきたかった。」と少し寂しそう。
もっと寂しそうなのは次女。彼女だけまだ散歩行けていない。
話をちゃんとわかったのか「自分もお散歩いく」と言い出す。

夕食どうしようか。
「何食べたい?」ときくと、長男が「誕生日やし、父ちゃんぜったい寿司食うっていいだすとおもってた」
というので、それもそうだなと思って、回転寿司にいくことにする。
ぼくは忘れていたけど、去年も回転寿司にいったのを覚えていたらしい。
ぼくと妻は食べる量が減った。今日は安めかなと期待したが、結局は同じ。
ぼくらが減っても、長男が増えたようだ。成長期だと、どうなるんだろ。こわい。

散歩して温泉いって、回転寿司食べて、サプライズももらって。
インフルのおかげもあって、ゆっくり過ごせた。
実に地味だ。そして気づけば結局、長男が中心のペースになっている。妻と娘たち、そして主役のぼくはどちらかというと待たされている側。
でも、それでいい。
こうしておめでとうといってくれて、囲んでくれれば、親は十分だ。

いちばん

長男がインフルになり、ついに妻が倒れた。長男は元気になった。
「だれかにウツしたら、治るぞ」と熱が出てお腹がいたいとノタウチまわっていたときの激励の言葉が現実になってしまった。

妻は先に床に伏す。
長女次女の夕食、お風呂、寝かしつけをやる。
いつもは長女次女でものをとりあったりケンカしたり、「お風呂はママがいい」とかいってダダをこねたりするのに、
この異常事態を察したのか、妙に今日は二人ともしおらしく、素直。なのでスムーズに進む。
お風呂で、長女が子ども3人で、だれが一番好き?と聞いてくる。
そんなのないよ、みんなが一番と返事する。

「ふーん。でも一番好きなの、パソコンだよね。うふふ」
心臓止まったよ。全部一気に白髪になるかとおもったわ。
めちゃくちゃショック。子どもたちの前では電話もパソコンもしていないはずなのに、なんでだろう。
昨日やむを得ず食事のときでも立ち上げていたのが印象に残っちゃったかなぁ。

寝かしつけのとき。長女はいつもどおり腕の中で寝る。アトピーなので、お風呂あがりはあちこち痒くなるので、さすってあげているうちに寝るのが毎日の習慣。タイマーが内蔵されているのじゃないかというくらい、正確に21時になるとパタリと寝る。

次は次女。今日はママが対応してくれないので、ぼくのところにくる。
彼女はまだ意識ランラン。小さな声で、いろいろ話かけてくる。
両手の指を広げて、それぞれの指を合わせる。この形、できる?と聞いてくる。
できるよ、というと「そっか」とまた次の指の形にする。
保育園の先生が、今日は何してくれたとかお話。普通に会話になっている。成長めざましい。
笑いながら、じーっと顔を近づけてくる。こういう時期、長男にもあったな。顔が似てるから思い出す。
ぼくの顔の目の前で止まる。近い。とても近い。そして、「パパ、お口、くさいね」と小声でつぶやく。
無表情。ものすごく冷静な口調。かといって、顔の位置は眼前から変えない。そういうのが一番傷つくパターン。
すみません、君が寝たら、歯を磨きます。

いろいろグサっときた夜。

「泣いた赤おに」でうるっときた父

長男の六年生の送別会でやる出しもののリハーサルが見学可能ということで、見にいく。

「泣いた赤おに」という話をずらっと学年全員が舞台にならんで、ソロだったり全員だったり大声で台詞をいう。時々歌もある。軍劇?群劇?とかいうそう。みんな制服で、気をつけ。揃っている。はみ出すのが許されない緊張感が漂い、統率がとれている。これまでよっぽどご指導されたのだろう。

 

保育園のころにあったほのぼの感や、伸びやかなかんじはもはやない。

小学校に入ると、とたんに個性がみえづらくなるもんだなぁ。

「こうすべき」というあるべきモデルがあって、その「正解」に近づくよう教育され、同時に管理もされている。なので、こちらとしてはお行儀のいい姿はみれても、生き生き躍動しているかんじはないので、あまりしっとりこない。保育園のときは、出し物といえば父ちゃんファインダー越しに涙流れてよくみえない、だったのに。一生懸命さは

同じはずなのにな、なにかが、ちがう。パーツになったな、というかんじで、「らしさ」が見えにくくなっているからなのかもしれない。だから個としての「成長したなぁ」が伝わりにくい。

 

劇はつづくものの、息子のソロパートがあるわけでもなく、そんなことをぼ〜っと考えながら、妻から頼まれたカメラは回しつつ、ストーリーが頭に入ってこない。

 

ギャラリーは舞台から遠いので、表情はよくわからない。カメラのズームでたまにみると、真剣な顔つきでまじめにやっている。全体的にも誰一人「やってらんねーよ」がなくて、ちゃんと、ひたむきにやってて、二年生らしい健気さに心洗われる。先生はピアノ脇でずっと手拍子して、何か声をかけている。六年生にいいものを見せて、気持ちが伝わるように、一生懸命指導されてきたのだろうな。これだけの人数を束ねて一つのものに仕上げるのだから、プロはすごい。自分が子どもの時も、こういう出し物あったのだっけな。残念ながら記憶にない。

 

劇が終わったあと、少しの六年生への「贈る言葉」みたいなのもある。お世話になりました、ありがとうとか。なんか懐かしい。これは覚えてる。「未来に向かって、進んでいってください」とか大人びたセリフも。

 

1回目が終わって、先生から「95点。まだ声が大きくなるはず。ピアノともずれていた」みたいなダメ出しがある。なんかこれで十分な気がしたのだけど、この学年だとここまでできるはず、みたいな水準があるのだろう。もう1回やるらしい。

「明日の本番の前の、最後の練習よ。」

 

せっかくだし、息子の立ち位置の真正面からファインダーをのぞくことにした。

泣いた赤おにの話は青おにとの友情の話。相変わらずストーリーは頭に入ってこない。

ときどき、カメラをズームにして息子の表情を確認したり。でもモニターがズームのときはなぜか動画が録画できないので、すぐにやめて録画をしたり。真剣な表情に変化はない。

 

最後はしっとりした感じで感動的な場面。フィナーレは歌で、「君の幸せがぼくの幸せ」というのがサビのフレーズ。何度も繰り返される。赤おにが青おにに向かっていっているか、またはその逆のようだ。

みんなの声のどこかに、150分の1くらいの、息子の声があって、「君の幸せがぼくの幸せ」と歌っている。ふーん。

 

2回目が終了。一同体育館から出る。子どもたちは教室へ。大人たちは帰る。校門から出たとき、自然とフレーズとメロディーを口ずさんでる自分がいた。ストーリーはぜんぜん入ってこなかったのに、無意識に胸にしみていたようだ。意外。こんなありきたりな言葉、普段は冷めて聞き流すのに。

こうしていちいち出し物に顔をだし、子どもの姿を見に行くのは、子どもの姿を見ることが「親にとっての幸せ」だからに他ならない。「子の幸せが、親の幸せ」なわけだ。その胸中を、息子に歌われた気がして、不思議なかんじがした。

 

退場のとき、先に子どもたちが体育館を出る。出口の脇に立って見送っていると、息子はぼくを見つけて、少しはにかむ。周りに気づかれないくらいに少しだけ、手を上げてバイバイをしている。歩みはもちろん止めない。保育園のときは、「パパ〜」と大きな声を出して駆け寄ってきていたのに、羞恥心がそれなりに芽生え、空気を読んでいる。家族の殻から出て、社会化されたかんじ。少し物足りなくて寂しい気もするけど、それも成長だ。そしてその表情に、すこし達成感もみえた。沢山のセリフを覚え、がんばったんだな。舞台は遠いし、人数多いしよくわからなかったけど、いろいろ大きくなってるんだな。

 

まだ親が見に来て嬉しいのは救いだ。夕食時に素直に褒めてやると、妻が「見に来てくれたら、うれしい?」と息子に聞いた。「うん」と頷く。やがて、ニキビが出始めたころ、「見に来んな」になるのかしら。先のようで、もう5年くらいかとおもうと切ない。

ぼくの父は参観日、運動会、卒業式、一回も見に来たことがない。それが当たり前だったから当時は何も思わなかったけど、ぼくは行かずにいられない。この違いはなんなのだろう。

夜の妄想会話

みんな寝て、ダイニングには長男とぼくが二人。

宿題がおわらない長男が、「タイムマシンって出来たらすごいな〜。ほんとにあるんかな〜」とつぶやく。

「たぶんないけど、光の速さとかで走ったら、時間は遅く進むらしいよ。だけど、過去にはいけないか、それじゃ。」とか、皿を洗いながら返事。

 

そんなとき、ひらめく。ひょっとして!

長男とカミオカンデを見学にいったとき。世界には粒子の反対の性質をもつ、反粒子というのがあるときいた。反粒子からできたのが反物質。わたしたちが目にしてる物質の反対。反物質はほとんど見つかっていない。なんでないんだろう、消えちゃったのかしら。科学の謎らしい。

いや、そもそも、そんなもの、存在しないからじゃないか、と考えちゃうのだけど、それだとダメらしい。

物理学者的には反物質も物質と同じだけ存在してないと、宇宙を司る物理の法則の説明がつかないんだとか。天才たちはそう考えているそうで。凡人からしたらその奇抜さはアーティストもSF作家も物理学者もかわらんよ。 反物質をつくるのは反粒子で、質量は同じだけど、電荷やスピンが逆という。ドラゴンボールでいうと神様とピッコロみたいなものなのか。宇宙が誕生したときは、物質と反物質が同じづつだけあったはずで、でも今の宇宙には物質がほとんど。反物質はどこにいったんだ?!という謎。

 

で、ふと思ったこと。妄想便乗。

なにもかも反対なら、その反物質の世界は、時間も反対に進んでたりする、とかはないのかしら。宇宙が誕生したときに、物質は現在から未来に。反物質は現在から過去に進んだ。電車の進む向きが逆。だから、あるのだけど、前を見ている限り見えない。時間が進む方向だって、一つだと限らない、というのはないのかな。

そう考えたら、タイムマシンは電車を乗り換えれば、乗り換えれば過去にいけるのは、ありえるのかもしれない。ただ、反物質にならなきゃいけない。いっそ反人間、とでも呼びましょうか。

 

「あの人、反人間だから。」

なんともいえない厭世的な響き。デーモン小暮が思い浮かんでしまった。

 

長男とのふとした会話が、こういう発想につながるのは、子育ての醍醐味だなぁ。普段はドラゴンボールの話題ばっかりだけど。

カミオカンデ見学に連れて行ったおかげで、反粒子反物質の概念はなんとなくわかっている(気がする)。子どもだからわからないということはなくて、凝り固まった大人よりも、「そんなもんか」と飲み込みがスムーズだったりする。

 

カミオカンデ見学は、去年の最も衝撃的な体験だった。極端だけど、死生観がかわった。その話は、またいつか。

次女めざましい

どんどん次女がここ1ヶ月で言葉を覚えて、しゃべることができるようになってきた。みていて、しゃべること自体を楽しんでいる様子。意思疎通って楽しいのだろう。よくしゃべるし、姉やママの言葉をオウムのように真似をする。

義理の両親の家で食事をしていたときに、トトロをそこでもみるといって鑑賞。「トトロのおかげで、言葉を随分覚えているはずです」とぼくが義父・義母にいうと、義父が「そうか、『ひとりにしないで〜』って言葉は、トトロで覚えたのか」と気づく。

長女がインフルのとき、次女が二人の家に厄介になった。そのとき、そう叫んでいたらしい。

義理の両親と、妻とぼく、どこかスッキリ膝を打って笑っていたら、長女が妻にひそひそ話。『おとなたち、楽しそうだね』と言っていたらしい。成長を喜ぶ大人たちと、その状況を冷静に見つめていた姉。

義父がそれに気付いたということは、義父もそれだけトトロのセリフを覚えていたということで、それだけ付き合ってくれてたということでもある。ぼくはそのセリフ、どこにあるか、わからない。ドラえもんも随分覚えてしまったよ、とのこと。ありがたい。

とりあえずやりたくなる

キッチンに立っていると、ときどき長女が「わたしもやってみた〜い」というときがあって、ぼくがぬか漬けを仕込んでいるときとか、わりと来る。まだキッチン台は彼女にとって高いので、椅子をもってきて、立たせて、手を洗わせて、やらせてみる。鼻がわりと効く子なので、糠床のフタを空けたらだいたい気づく。

糠に手を入れてかき混ぜたり、なんともいえない独特な低反発なところにキュウリやらをズボっと埋める感じが好きなのかな。

こないだは「キュウリさん、おやすみ〜」といいながらフタを閉めてた。たしかに、寝床としても糠床は気持ちよさそうだ。起きたら、食べられるのだけど。