勝手にウルウル

長女が朝パンを食べながら、「パパって、おじいちゃんになったらどうする〜?」といっている。ぼくはキッチンで皿を洗っている。その前に「パパが、ママだったらどうする〜」といっていたから、単なる言葉遊びだろう。

「パパも、おじいちゃんになるときがくるよ」とまじめに教えてあげることにする。

きみが、「やがて結婚して、子どもを産んだら、パパはおじいちゃんになるんだよ」と。どういうことかな、と不思議そうな顔で考えている。

「そのとき、(いまの)おじいちゃんはどうなるの?」

「その子からしたら、ひいおじいちゃんになるよ」

「ふーん」

しばらく沈黙したあと、

「わたしはだれと結婚するの?」

と聞く。

「それはね、大きくなって、好きな人ができるでしょ、そして、その好きな人が」

まではサラッといえたけど、「その好きな人があなたのことをとっても大事にしてくれる、そんな人と結婚したらいいとおもうよ」と言おうとおもったとたん、やけに胸が熱くなるじゃないか。なんか涙が出そうになって言葉につまる。もう名字も変わるし、この家から出ていくとかいろいろ想像がよぎる。単なる無邪気なこの4歳の質問。ここで感情移入はまったく無用でだれも求めていない。そして自分が振ったこの話題、自爆もはなはだしい。我ながらアホすぎる。とわかっていても。

さすがに泣いたらへんな空気になるので、皿に視線を落としながら、呼吸を整えて細い声で言い切る。さすがに感極まってることは察していないようだ。

 

「へぇ〜。」

「だったらあたし、お兄ちゃんがいいな〜」
「そうか〜、でもお兄ちゃんとは結婚できないんじゃないかな〜」とまたクソ真面目な返事をしている自分のセンスのなさに辟易とする。いちいち、いまいわなくたっていいのに。

そのあと、「シンデレラ読んで〜」と絵本を持ってくる。最後はめでたく結婚しておるが、どうしても父親目線になってしまう。この名作、実はぼくはあまり好きではない。王子は単なる面食いなところが気に食わない。ちゃんと大事するか、それが伝わってこないし、結婚はゴールではない。とまたアマノジャクに読んでしまう自分がまたいやになる。


あれこれ考えるのが面倒になって、とりあえず長女を抱きしめる。

もちろん、孫の顔はみてみたい。けど、その前には大きなハードルがあるなぁ。先が思いやられるわ、こんなんじゃ。

天使と悪魔

次女のイヤイヤがすごくなってきた。エクソシスト的な憑依。言葉も覚えたので、きちんと主張する。したいことが、ちゃんとある。代わりにしてあげるのはご法度。自分でしたかったとこじれる。

平常時のあどけない可愛さはどこにいったのかというくらい、泣き叫ぶ。同じ言葉を何度も繰り返す。今朝は「ママ抱っこ」。ママが手が離せなくて対応出来ない間、ずっとこのフレーズを泣きながら繰り返す。いかつい街宣車シュプレヒコールくらいの迫力がある。

いちばん困るのは、彼女が「わかってない」場合。たとえばお風呂に入って、服を着せようとしたらそれを拒否する場合。「着ないの」と意固地に裸のままでいようとする。冬のこの家の寒さの中で裸はさすがにまずい。彼女にとってのそんな親心など知ったことではない。ただ目の前の着せようとすることを拒否したいだけ。結局、むりやり着せることになる。その代償は大きくて、忸怩たる思いなのだろう、30分くらい(の長さに感じるくらい)延々と泣き続ける。

 

この手の泣き声の周波数は、人間にとってあえて心地の良くないヘルツ的なものに生物の進化上設定されているのかしら。なるべく落ち着かず、危機感を感じるように。聞き続けるのはつらくて耐え難い。寝起きならなおさら。

でも、この小さい身体にすごいパワーがあるというのはどこか心強い。むかし長男がまだあどけないころ、火傷で大怪我させてしまって、NICUに入るくらいの入院をさせたことがある。沢山の管につながれて、ぐったりしていた。普段の思いっきり泣いてうるさいときがありがたさを感じたことがあって、早くあの泣き叫ぶ声を聴きたいと思ったものだ。なので、子どもは泣くことも仕事のうちだとおもって、どっしり構えていようとなるべくしている。作用と反作用の法則は宇宙の真理的な。可愛い時ばかりでない。やまない雨はない、泣き止まない子どもはいない。

そして、昨日保育園で、同じ学級のこと押し合い圧し合いしてるのをみかけた。イヤイヤvsイヤイヤのガチンコ対決を毎日して、それなりのストレスをかかえつつ、自分を押し殺していることもあるのかもしれないと想像がついた。その反動で、親には安心して思いの丈をぶつけているのかもしれない。そうだとしたら、思う存分それを受け止めてやるのが親の役割なのだろう。

 

とはいえ、こちらもまだまだ修行不足の身。疲れているときはほんとにイヤになるときもしばしばで、ついこちらもイライラしてしまい「ひつこいな〜、そろそろ泣き止めボケ」的な心情になってしまうのも事実なわけでして。

いっそ、赤ちゃんとかちびっこの泣き声パワーを蓄えて発電できるとかの技術が開発されたりしないものかしら。泣いたら電気代減るとか、熱に変わって部屋が暖かくなるとか、餅が焼けるとか。わざと泣かせるはなしで。

 

昨日買った家電が入っていた大きなダンボールに入って、長女に押してもらって部屋をあちこちいっている。長男も入った。重くて押せないと苦心する長女。んじゃおれが押すと交代して二人の妹を長男が押しはじめた。しばらくして3人ともあきて、いま次女はリカちゃん人形にいろいろアイテムをつけ始めている。「見て〜かわいいでしょ」と横で話かけてくる。今朝の悪魔はなりを潜め、かわいいやつでしかない。つかのまの平穏。

サンデースノー

始めて雪が積もった日曜日の話。

起きたら積雪約20センチ。ここはスキー場ですかというくらい吹雪いた。おかげで庭も屋根も真っ白。窓の外の雑木林も重そうに雪化粧。きれい。エルサが来たというより、雪舟だなこりゃ。

息子はテレビのドラゴンボールを見に友達の家に行く。ホワイトアウト的な中に突っ込ませるのは流石にまずいかとなり、徒歩は諦めて今日は送迎してやる。帰ってきて、子どもたちに餅を食べさせる。雪の日の部屋は実に明るい。太陽の光が、いつもは東の窓から差し込むだけなのに、今日は地面の雪に反射して、西側の下の窓からも入ってくる。結果、普段は見ない影が壁にできている。下から光、上に影。不自然さがいとおかし。

お腹がふくれてくると、長女、次女「雪で遊びたい」とウズウズ。
その前に、次女はオムツをかえなくちゃ。昨日皮膚科でたくさん水イボをとった。オムツのところだから、妻と二人がかりで消毒したりメンテナンスが必要。一箇所一箇所消毒して、バンドエイドの綿の部分だけ切って、それを貼り付けるという結構骨が折れる作業。これ、2週間もやるのかとおもうと大変だけど、良くなることを信じて。イタイらしく、バタバタあばれるので、二人がかり。
完了。いよいよスキーウェアを着替えさせて、いざ庭へ。次女の手袋がないので、妻が左義長にいくついでに買ってきてくれるらしい。
 
庭をただ走り回ってキャッキャよろこんでいる。平でまっさらな雪面に、飛び込んだり走ったりしたら自分の跡ができる。秩序から、非秩序の流れ。自由に何しても怒られない。しかもフカフカ。スケッチブックに「何描いてもいいよ」といったときに夢中になっているあの姿の、キャンパスがどでかく、全身が筆になっているかんじ。そりゃ楽しいわな。
この寒さは子どもは苦痛じゃないらしい。でも断続的に鼻水は出てくるので、ときどき呼びつけて拭いてやる。
長女は仰向けに寝ころがって、手と足を回転させている。「起こして」とさけんでいる。「自分で起きたら?」というと、「それじゃだめなの」と。なんでか聞くと、どこで教えてもらったのか、そうしたら、4つの扇形ができて起き上がると「天使のマーク」ができるらしい。だから、真っ直ぐ起こしてもらわないと、その跡がくずれるとか。起こしてみる。なんということでしょう、たしかに天使にみえるわ。だれに教えてもらったのか不思議だったけど、後日、保育園で読んでっていわれた絵本にそのくだりを発見。
気温は0度くらいなので、初雪のときより雪がサラサラしてる。前は、ギュッと小玉をつくって、コロコロ転がすだけでどんどん大きくなり、雪だるまが簡単にできたのだけど、今日はできない。ギュってやっても、固まらない。サラサラ散るし、転がしてもくっつかない。水分が糊の役割をしているのか。

妻が帰ってきて、ソリを実家からもってくる。でかした。ほんの小さな山だけど、滑らせてみる。うまくいけば7,6メートルくらい滑る。十分楽しそうだ。手袋とスキーウェアの間にすき間ができて、肌が雪にふれて、長女がいやらしい。ときどきぼくのところにきて、直してという。かぶせてやる。それをみて次女もそんなサービスあるんだねと気づき、彼女もちょいちょいやってくるようになる。すぐにずれるから、結構めんどい。そして次女に買ってきたはずの手袋は、まだ大きすぎて頻繁にずれる。3人でキャッキャやっている。微笑ましい。長男はコースがずれて樹にぶつかるのがいやで、コースの補修など、兄ちゃんらしいことをしてやっている。

喜んでいる顔をみると、父ちゃんどんどんソリのコース、高くしたくなるわけでして。
雪をあちこちから集めてきて山をつくろう、ってなる。一番熱心に手伝ってくれたのは長女。せっせと甲斐甲斐しく雪を運んできてくれる。次女は長男、次女がやってるのを見て、そのバケツは私のだから寄こせ、私もやりたいと主張。雪の中でもイヤイヤ期特有のわがままは出る。長男も長女も渡したくない。そこで虫かごをもってきて渡す。1人一つになって、各々がバケツと虫かごに雪をつめては雪山にもっていって、出す。この繰り返し。

飽きてきたのか、まだ道半ばだけど、長男が長靴に雪が入ったのでそろそろ家に行くという。次女もそれについていく。残るは長女。
雪が激しくなってきた。日も傾いて薄暗くなってきて、こっちも疲れてきたけど、まだ彼女は外にいたいらしい。
滑る?と誘うとウンといって、ちょっと高くなったコースを。調子のいいときは9メートルくらい滑る。
ぼくも1人でやってみる。楽しくて、懐かしい。実家の寺の前にあった坂を滑った幼少期を思い出す。

その後、何度も背中を押してやる。ブランコ、ソリ。彼女の背中を押してばっかりだな。そして、どんどん重たくなっている。

おにわゲレンデ営業終了。長女は家の中へ。小さい一軒家、だけど建てるとき庭は広めに確保した。それは、今日みたいなことをしたいと憧れていたから。だから長女の反応は嬉しかった。バケツに残ってた雪を、片付けずにガレージにそのままにしておくという。解けるよ、というと「知ってるよ。それでいいの」だそうだ。

長男がサッカーの時間になるので一緒に行く。3週間のインターバルをはさんで、新年一発目。サッカーコートは屋外だけど屋根がある。雪でもサッカー少年たちは元気にコートをかけまわっている。今日はウィンドブレーカーみたいな、でもサッカー仕様のカッコいいジャンパーを着ている子どももいる。ああいうの、買ってあげてもいいかもしれない。しかも、なぜかうまそうにみえる。

脇で見る保護者たち。日中ずっと庭にいたせいで、そのギャラリー席でじっと1時間座るのはさすがに堪えた。半泣きになるくらい寒くて死にそう。途中眠くなる。これはきっといわゆるあれですか、雪山で「おい寝るな!」というシーンがあるあれですかね、ということで、寝ないようにする。骨までカチンコチン。でも久しぶりのサッカーを見ていたいからがんばって居座る。少しでも上手くなってるな、という気づきがあるのがうれしい。

家に帰ったら、妻が気を利かせて風呂に直行できるようになっていた。指先とかほとんど感覚がなくなった凍った身体を湯に浸す。あたたまる、を通り越してふやける、というかんじ。停滞していた血が目覚め、全身を流れていくかんじ。生き返る。
サウナで水風呂と風呂を行き来する人がいる。どうしてそんなあえてつらいところに飛び込めるのか不思議でならなかったけど、こういうことなのかも。

風呂から上がると、どっと重い疲れがきた。けど、冬はこうでなくちゃいけない。
子どもたちもいつかこの記憶が、愛着にかわるはずだから。今日のぼくのように。

その確率たるや

夜に次女のオムツがない、と軽く騒ぎになった。あんなに沢山あったはずで油断していた。沢山入った新しいパックがあるはずと捜しても、どこにもない。ゲゲ。山を降りて薬局まで買いにいく体力はもう残っていないので、できるだけ避けたい。明日まで乗り切れるか。

廊下、階段の踊り場、和室、水回り。普段あんなに神出鬼没に落ちているオムツも、今日ばかりはなぜか落ちていない。

そうだと車に行って、外出用のオムツのカバンがあることを発見。なんとか2枚を確保。彼女の頻度からいうと、ギリギリなんとかなるはず。ひとまず下山はしないことにする。

妻から「オムツ買っておけ」との指示が出る。以前にヤラカシタことがあって、できるだけ、避けたいこのミッション。「パンツタイプで、ムーニーで、Lね」。「はーい」

 

スーパーのオムツコーナーに立つ。前回同様、ここでわからなくなる。前にヤラカシた元凶、テープタイプではなく、パンツタイプなのは大丈夫。でも、これ、わかっちゃいても、この2つのパッケージデザイン、ほとんど変わらない。この違いを軽視している。隅に小さく「パンツタイプ」、「テープタイプ」とおしとやかに書いてあるだけ。だから、ついパンツタイプだと思ってテープタイプを手にしてしまうこともある。ぼくにしたら、まずここに目がいく強調したデザインにしてほしい。「パ」とか「テ」とか、グーンと一番大きくど真ん中にレイアウトしてほしい。ドヤ顔の幼児の笑顔などいらん。そうなってないのは、ぼくのようなうっかりさんが間違えて買って「2度おいしい」を狙ってるんじゃないかと訝しんでしまう。

 

次はメーカー。ムーニー?グーンだっけ?ちゃんと聞いておくべきだった。パッケージの柄をみたらわかるだろうとタカをくくったのがまずかった。いざ前に立つどどれも既視感があって、家に一度はあった気がする。メーカーのロゴ、幼児の笑顔、キャラクターが添えられて、ド派手はロゴ。極彩色。なんでこんなにエゲツない画一的なデザインなんだろう。ひとつくらい、おしとやかなものはないものかしら。

 

そして、サイズはM?L?「エ」が始まりだったのは覚えている。「エ◯」の◯がわからなくなる。Sもそうだ。なんでどいつもこいつも「エ」始まりなんだろう。大中小なら、まだ音で覚えてたはず。ドアの「PULL/PUSH」しかり。欧米化が歯がゆい。

 

まぁこのあたりやろ、で選ぶか。オムツは意外に高く値段は4桁なので失敗は許されない。冷静になろう。メーカーは4種類、サイズは3種類、タイプが2種類。これだけで24通りある。しかも、男の子と女の子の区別もあったり。48通りあるとして、あてずっぽで1つを選んだら、それが正解する確率は2%。おそるべき数字じゃないか。危険すぎる。

 

ここは勇気ある撤退ということで、妻に確認するほうが賢明だと判断。今の時間は運転中なので携帯は出ない。保育園で妻を待ち伏せる。「いまから薬局いってオムツかうつもりで、確認なんだけどさ」と切り出す。さっきスーパーで立ち往生したことなどオクビにも出さない。仕事ができる風を装う。

先に行こうとしたら、長女がお出かけの雰囲気を感じたのだろう、パパと一緒にいくといってついてきた。薬局へいって、正しいのを選んで購入。スーパーにはない品揃えだった。あぶね〜。

 

ウル覚えのまま、なんとかなるやろ、という人生を歩んできたけど、家事をしはじめて、その体質が少しずつチューニングされつつある。前はノアを買いにセレナを買いかねないくらいだったから、進歩と呼んでいいのだろう。とはいえ、間違えてセレナを買っていても、なんとかなっている気もする。その前に責任感と記憶力を磨けという話でもあるが。

なぜ雪かきをするか

週末から降っていた雪のピークが去ったもよう。
積雪は40センチほどになった。
今日は快晴。まぶしい。
今日の我が家はあちこちから光が入って、一年で一番明るいかもしれない。
週末にせっせと中庭につくったカマクラを、増築することにする。
屋根雪を降ろして、一箇所に山にする。上から同じところに繰り返しおとして、富士山型になる。
その富士山を、下からスコップで掘って雪を出す。
その分空洞ができて、カマクラの出来上がり。
では、なかった。事はそんなに簡単ではないと始めてみてきづく。

雪の山は崩れやすい。当たり前か。
掘ったら、その分上に乗っていた分の屋根がおちる。空洞はできない。
なので、手間でも下から壁を固めていくしかない。
空洞になるであろう部分のスペースをつくるために、雪を周辺に掻き出す。

増築部分は、思い切って広く直径2メートルくらいにしてみよう。
周囲に雪を積み上げる。

掻き出しすぎて、せっかく積み上がった壁がガザーっとくずれて振り出しに戻ることもしばしば。
横着してたくさん雪を一回に取ろうとしたら、くずれる。辞書の「急がば回れ」の項にぴったりだ。

掘って積んでを何十回も、同じような作業を繰り返す。
なかなか進まない。そもそも、直径が大きすぎたか。
でもこの中途半端でやめるわけにはいかない。
せっかく天から降ってきたこの不思議な材料、「さあ汝よ、築きなさい」の声がする。

下から材料を積んでいくこの作り方、組積造でしたっけ、これが石なら、ヨーロッパの古い町並みも同じつくりかた。
どこかで、パリの町並みは、そこにあった土をほって、それを壁と屋根にして空洞をつくったプラスマイナスゼロの街、というような話を聞いたことがある。雪を掻き出した分、壁は高くなるのを目の当たりにしてる今、同じことをしている。おフランスと同じな気になってくる。
壁は下の方が厚いほうが安定して、上になるにつれて薄くなるほうが合理的だというのも、積んでは崩してはを繰り返してだんだんわかってくる。
でも、この作り方だと窓は小さくなり、中は暗くなる。
ちなみに、組積造の次に、やがて柱と梁で建物をつくる技術ができたそうな。窓が大きくとれるようになって、教会にはステンドグラスができた。
その技術革新は、当時はそうとうなインパクトだったに違いない。
単純作業がつづくので、あれこれ考えてしまう。

だんだん、寂しくなってきた。だれからつくってくれというわけではない。
1人でいい歳のオッサンが、なんでこんなことしてるんだっけ。
途中で、新聞のオッサンが紙袋を届けてくれた。そこをがんばるなら、玄関までのアプローチ、もっとしろよと思われてそうな。
しかも、昨日はサラサラだった雪も、太陽に照らされて解けて重たくなってきている。水分がまったくないのも困るけど、多すぎるとくっつかないし、なにせ重い。時間がない。今週はもう降らない予報。解けるだけ。やめても誰も困らない。

でも、もう少し、子どもたちにカマクラのワクワク感を楽しんでほしいから、やる。
この地域に住む以上、雪を楽しまなきゃ損だ。
ちなみに、ぼくはカマクラに入った記憶はない。
でも、ずっとカマクラに入ることにずっと憧れいた。
なので実は子どものためは方便で、ぼく自身のためかもしれない。

とあれこれ考えているうちに、まだぼくのヘソくらいの高さしかない壁のところで、雪がなくなった。
ありゃま。まさかの雪不足。空洞というよりも、凹み。山の頂上の噴火口みたいなかんじ。カマクラではなくカルデラ。山のテッペンだけが中庭に顔を出し、その下には大きな山が埋まっている。まさに氷山の一角のように見えなくもない。

 

中途半端で悔しい。でも、ちょっとほっとしてもいる。
天からもうそのくらいにしておきなさい、ということにして、やめられるから。気がつけば無理をしてたのだろう、腰が限界だったようでいやなかんじのピリピリ感。

家の屋根からは次々と雪の塊が落ちて、樋からは水が滴り落ちている。
この時間をかけてせっせと積み上げたものも、いまは存在感を放っているけど、やがて消えてしまう。
残るのは、ズシンとくる疲労感と腰の痛みくらいか。

「なぜ、わざわざ雪かきをするんだ。待ってれば、いつか自然に消えるのに。」という考えもあるそうだ。
時間と労力の無駄、というわけ。一理ある。雪かきをしない新雪のフラットなままの雪面もきれいだし。
理由はいくつかあって、ズボラだとご近所さんに思われないように、とかもあるだろう。雑草を抜くのと同じ考え。

ここ数日、家の中が寒い寒いといっていた妻が、朝の出勤前に車を出すために雪かきをしている。
やがてぼくと交代。やり終わった後食卓に戻る。
座ってる妻から「最初からテメーがやれよ」と怒られるかと恐る恐るだったが、
彼女は「雪かきはいいね、温まる」といった。

なんていいこというのだろう。そういうことなのか。
確かに、真冬だというのに汗をびっしょり。暖房いらずでTシャツで過ごせたり。
そしてあとには何も残らない。エコな遊びだな。

ぼくの家のあるところを伝えたら、二言目には「ああ、雪多いところで大変でしょう」と言われることもしばしば。
雪は「やっかいなもの」という扱いなのかもしれない。
でもせっかくだし、子どもや犬のように、一緒にこの雪と戯れよう。

日に日に少しづつ春は近づいてきている気がする。でも、あと1回くらいドカンと降ってほしい。
せっかくだし屋根まで積んでみたい。

入れるべきかいなか

買い物して家に帰ると部屋の温度が11度。妻が買い物かごから野菜を冷蔵庫につめながら、「この野菜室より、この部屋の方が寒いのだけどなんのために入れるんだろね」とつぶやく。たしかに。

むしろわたしたちが野菜室に入りたいくらいなのかもしれない。冬つづく。外は二度。

なぞの切り傷

先週あたりから、いつのまにか、指先がパックリ切れて血が出てる。切った覚えはなくて。

左の人差し指、右の人差し指、そして右の中指と次々と。かまいたちでも我が家におるんかなと不思議に思ってたら、妻から「それ、アカギレでしょ」って。なにそれ。

洗い物とかしてたらなるらしい。たしかにいつになく手がカサカサ。ささいな小さな傷のくせに、地味にずっと痛い。でもそれだけ家事をしてる勲章と思えば誇らしくもあるわい。

クリームを出してくれて塗る。そのときの手の動き、そういえば母もよく同じ動きをしていたなと思い出す。あれはこういうことだったのか。