長女。朝起きて楽譜をみながらひとり、銀河街の悪夢の曲を自主練。弾けるようになったと嬉しそう。
自責と懺悔
息子を育てて15年、ぼくは彼の人生を歪めただけだったのではないかと自責の念に苛まれているのである。その都度、彼にとっていい影響があるだろうと、最適な声がけは何か、やりたいと思うことに対して、最適な選択肢は何か、持っている限りの思考を尽くしたつもりではある。その吟味には、手を抜いたことはない、とはっきり言える。最優先であった。いろんな人に会ったり、あちこち連れて回った。なるべく彼の意思を尊重し、おしつけることもしないで、彼の判断に委ねることもしてきたつもり。
しかしそれは、ぼくの限られた経験の、狭い視野でのアドバイスでしかなかった。ハマることは少なかったようにおもう。ただ彼は素直に父のいうことも、むげに切り捨てることはなく、少しだけ取り入れる。
でも結果、そのズレは彼を翻弄し、中途半端な影響として参与するだけにとどまったにすぎないし、こちらも心配が募り、結果純度の高い「口うるさいオヤジ」が反抗期に完成した。ならばと中学校には、入学式と卒業式しか足を踏み入れていないし、距離を置くことにした。
もし、つべこべ言わず、彼のやりたいことだけを純粋に支え、応援することができていたら、どうなっていただろうか。バレーの結果も違っていたかもしれないし、彼の納得する道が、もっと清々しくひらけていたかもしれない。良かれと思ってきた価値観に拘泥し、老婆心ながらと声をかけ続けてきたことを、申し訳なく思い、反省している後の祭り。思い入れがありすぎたせいだろう。力みすぎたら、歪むだけ。本人のためにならない。大事であればあるほど、もっとシンプルに、手放して育てるべきであった。取り返しがつかないが、バレーだけをもっと応援すればよかった。まぁ、それもうっとうしがられていたかもしれない。
そもそも、ぼく自身、自らに自信を持たず、人生の行き先を見失ったまま、たいした仕事もせず稼ぎもない。尊敬しうる、重んじるほどのものなど持ち合わせていない。そんな信頼に値しない父のいうことなど、いくらこっちが必死になったところで、むしろ「ああはなるまい」と思うのが関の山だろう。自分は違うと思いたくなり、まともに真剣に受け止める気になるわけがないのである。
何を伝えてももう逆に作用するのではないかと疑心暗鬼。父親はもうしゃしゃり出ない、黙って放任、元気であることだけを点検と言い聞かせる。彼の人生を邪魔しない。
やってることとして、見捨てると見守るの違いはどこにあるか、わからなくもなる。我が子を信じているかどうか、の違いか。
距離が再び近づくことはあるのだろうか。
ぼくの場合、父とは、悩んでいるとき、これも大半は息子への向き合い方についてなのだが、心構えや生き方のヒントをくれる彼のこれまでの膨大な読書を基盤とした博識さとリベラルさに頼ったことがきっかけだった。そんな話、彼は興味ないし、ぼくが持ちあわせてもいない。
こんな父で申し訳ない。巣立つ春。
無力
何がベストかわからないなかで、最善を尽くそうと長くは15年、特にこの5年間つとめてきたが、どれも空回りにすぎず、まちがっていたのであった。何もしない、が正解だったのに。自らを責めつつ、取り返しのつかないことをした。申し訳ない気持ちでいっぱいである。
肝に命じるには遅いが、戒める。恐れていたことを、むしろ近づけ、ことごとくハマり望まない現実となり現れる。悲しいというか、みじめというか、言葉にならない後悔の念に苛まれる。
こうなることは、どこかでわかってもいた。無駄でさえもない。がんばらなくてもいいものに精を出し、マイナス効果を招いてしまったんだ。虚無。何もしない、が一番。
今日でちょうど、アナ雪の公開10年だそうだ。10年前の決断を、悔やむ。届かないのに、声を出し続ける。いささか疲れた。そろそろ気づけよという話で、ここから先は、惰性でよかろう。力尽く。頭を埋めてきたものを外に出し、空にして、ほかのことが入るように。
時間泥棒
スマホ中毒。つらい。
ジョブスの後に生まれた人間の避けられない宿命。片時も手放せず、それだけになる。意識が途切れ途切れになり散逸し、集中の持続がなくなる。
実世界への好奇心も根こそぎ奪われ、生きることに根差した判断力も育まれない。
スマホを考えた人はもちろん、興味がないものを必要な情報のように惑わせ、使わせつづける人も大金持ちになる。
術中にハマるユーザーは貢ぐ奴隷のごとく。支配者は、消費者のシアワセなど考えてくれてはいない。ゲームやギャンブルと同じ。お金もしかり、時間が搾取される。気づかず、這い上がることはない。
世界の貧富の差が広がり続けているという。必然だ。逆転は起きないよう、巧妙にレールは敷かれている。
何度か書いたけど、本を読む人の姿は美しいのに、スマホを触る姿がどこか情けないようにみえるのはなぜなのだろう。ホンとファン。生んでないのは同じなのに。
支配され、囚われていることへの危機感の有無か。本には、重さがある。閉じる能動的行為と、意思が一対一でつながっている。ファンだと、そんな区切りとなる行為が用意されていない。リアルタイムに情報も入ってくるから、なおさら。強い意志でないと、断ち切れない。
ひたすらのんべんだらりと時間が無駄になる。際限のない餌の提供、満腹中枢の麻痺。千と千尋の神隠しのお父さんが豚になった、あの場面が思い浮かぶ。人間性を奪われた従属。その危機感を察知しているのだろう。直感は鋭い。スマホをさわりながら、こちらも機械になっているんだ。
明日死ぬとなったとき、空を眺め、夕日を眺め、それでも本は読むだろう。「ありがとう」と「バイバイ」だけ投稿して、スマホは放り出すだろう。できるだけ人間のまま死にたいから。
人生の時間を浪費するのも、また人生。過度に便利になって恵まれれば、無駄づかいをしはじめる。
スマホを指で動かしても部屋は綺麗にもならないし、お腹も満たされない。手は、衣食住を整えるために動かしてたい。手を動かしていれば、いやなことがあっても、気持ちもスッキリする。スマホでは沼から出られない。人間は与えられるだけでは、幸せになれないようだ。身体はそのようにできている。
とっとと捨てたいでもできない哀しさ。人類全体の総じていえば、恩恵の方が大きいから世界に広まったのだろう。不可逆。でも、明日死ぬとは思ってないことへの甘えがあるのではないか。自戒を込めて。鴨になって、自らの翼で飛んでいきたい。中庭のメルをみて、羨ましか感じる朝。